明徳4年(1393)―寛正3年(1462)3月18日 室町時代中期の臨済宗の僧。
俗姓は蘇氏。土佐国で生れる。諱は玄詔。(旧名は明詔、後に玄承と改む。
晩年に自ら玄詔と称す。)字は義天。幼時から頴異であったため、父は王法師と
呼んでいた。
弘化4年(1843)中山厳水編纂による『土佐國編年記事略』では、「義天禅師
ハ蘇氏ノ裔ナリ。按ズルニ蘇姓ハ蘇我氏ニテ往古ヨリ波川ヲ領ス。」とあるので、
いの町波川出身か。
応永14年(1407)
師、15歳。
天忠寺開山義山大和尚によって剃髪する。
(義山和尚は三光国師の高弟で、南北朝期の新田義貞の弟 脇屋義助の子
又は孫か。)
応永17年(1410)
師、18歳。
義山大和尚によって得度し、明詔という法諱を与えられる。
まもなく京都に上り、建仁寺の孤芳和尚・福聚院の春夫和尚に参じた。(禅道に
入って学ぶ。)さらに、尾張犬山の瑞泉寺の日峰和尚に参じた。
応永34年(1427)
師、35歳。
師日峰和尚が義天に「玄承」の安名を与える。
(安名とは、新たに戒法を受けて出家得度する者に法名をつけ与えること。)
応永35年(1428)
師、36歳。
師日峰和尚から印可を受ける。
(印可とは、師僧が弟子に悟りの境地を得た時に認可して証明すること。)
父が亡くなったので、一度故郷土佐に帰って、父祖の墓に詣でた義天に
一寺を建立しようという郷民の熱望にもかかわらず、龍門山瑞巖禅寺の額を
書いたのみで郷里を去った。(この龍門山瑞巖禅寺の場所は不明で、郷里を
去ったのは師日峰の指示を優先されたと推測される。)
そして義天が応永年中に建てた美濃の愚渓庵に居し、瑞泉寺に移ったが、
師日峰和尚が示寂した後、妙心寺の養源院に住した。
文安5年(1448)
師、56歳。
妙心寺の養源院に住し、妙心寺第五祖となる。
宝徳2年(1450)
師、58歳。
室町幕府管領 細川勝元が義天和尚のために龍安寺を創建し、義天和尚を
開山とする。
宝徳3年(1451)
師、59歳。
細川勝元が京都に近い丹波八木に龍興寺を創建し、義天和尚を開山とする。
(義天は京都と八木を往復して、作務につとめたと云われる。)
享徳元年(1452)
師、60歳。
後花園天皇の綸旨をいただいて、紫衣を受け、大徳寺に入寺したが、三日で
退山し、龍安寺に帰る。
(大徳寺、妙心寺で天皇から紫衣を賜ったのは義天が最初で、この時には現在
京都国立博物館に寄託して義天玄承伝法衣となっている銀襴の九条袈裟を
用いられたことであろうと云われる。)
長禄3年(1459)
師、67歳。
妙心寺開山関山慧玄禅師の百年忌が龍安寺で営まれたが、五山の長老の
反対もあり、義天は大悲呪一巻のみを読誦する。
寛正3年(1462)
2月22日に、ただ一人の嗣法の弟子雪江宗深に印可状を与え、3月18日に
70歳で示寂した。
義天の全身を本堂北側に葬り、無字の自然石を据えたのみで、細川家の
意向で紫衣を勅許されたため木像は紫衣を着けることとなるので、
先師日峰の黒衣の像に遠慮し、弟子には像をつくることを禁じた。
そのため龍安寺は木像にかえて、等身大の位碑一基をつくり
今に至っている。
元禄2年(1689)5月11日
東山天皇から禅師号をいただき、「大慈慧光禅師」と諡される。
(諡は、死後に尊んでつけた称号で、授号の詔敕は龍安寺に現存)
なお、5月11日は、細川勝元公の祥月命日。 |